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◎ ◎ 地震の歴史を物語る古墳 ◎ ◎
古代からしばしば大地震に
見舞われて来た記録を
発掘された古墳が物語ります。
高松塚の飛鳥美人を汚したのは誰だ
牽牛子塚古墳の石室を破壊した正平地震
高松塚の飛鳥美人を汚したのは誰だ高松塚に隣接して遊歩道が造られる
計画が立てられた際に、その10年ほど前に地元の農家の人が、野菜の
貯蔵穴を掘った時、凝灰岩の切石が見えたという話が地元出身の関西大学の
網干善教教授に伝わったのが、高松塚の壁画発見のきっかけでした。
発掘調査をする計画が立てられ、昭和47年(1972年)3月2日に発掘が
開始されて、世紀の大発見が3月21日のことでした。
前日には、春一番が吹き、龍が天に昇るような荒れた天気だったといいます。
以後、高松塚旋風が吹き荒れて、文化庁の下で保存の計画が立てられて、
昭和49年8月に保存施設の建設が開始され、最新の空調設備を持った
施設が完成したのが昭和51年(1976年)8月です。
しかし、発見から34年後、国民に伝えられたのは、黒いカビなどで汚れた
飛鳥美人の顔や四神図の悲しいニュースでした。
一体、何時からこのようなことになったのか、また、この犯人は誰なのか?
完全だと言われていた空調施設すら役立たなかったのは何故?
色々と責任論や犯人探しが渦巻く中、損傷の進行が止まらないとなって、
解体して、壁画を修復するということになったのです。
石室を覆う土を慎重に取り除きながら調査を進める課程で、徐々に明らかに
なってきたのが、この古墳が、700年前後に築造されてから9回も奈良県を
襲っている南海道大地震が、主犯だったということです。
雨水の浸入を防ぐために、石室は幾層にも土が固く突き固められた版築工法に
よる槌の層で覆われており、スコップの歯が立たない硬さです。
石室の上の版築層のあちこちで、亀裂や断層が入っていて、1mの所では
深さ40cm、長さ2mにも及ぶ大きなものも見つかりました。
更に石室の天井石には割れているものもあり、地震のすさまじさが見てとれる
状態だったということでした。
こうした割れ目の隙間から、湿気と共に黒いカビが石室内に入り込み美人を
無残な姿にしてしまったいうことで、地震は大きな罪を犯していたのです。
牽牛子塚古墳の石室を破壊した正平地震
八角形墳であったことから斉明天皇(661年没)の陵墓であることが
確認された牽牛子(けんごし)塚古墳は切石を3層に積上げた陵墓で
あったと推定されている。
石造の土木工事好きな女帝らしい幾つかの石造遺構が見つかっている。
「狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)」と当時揶揄されたと伝えられる
天香具山の西から酒船石の存在する山の麓まで掘られた運河(大溝)や
この山全体を切石で覆った石山や付属する亀形石造物などが有名です。
牽牛子塚古墳では、推定70トンほどもある凝灰岩を10数キロメートル
離れた二上山から運び、巾5mx奥行き3.5mx高さ2.5mの中仕切りや
棺台を設けた石室を掘り込んでいる。
この石室のある巨石に、長さ3mほどの亀裂が入っています。
正平16(1361)年8月3日の早朝に発生した正平南海地震の際に
亀裂が入ったものと推定されています。
ここから少し北の終末期古墳の力ヅマヤマ古墳は平板石を積上げて
石室が造られていましたが、この古墳も正平地震による地すべりで
石室がずり落ちて、大きく破壊されていました。
いずれも、鎌倉時代〜南北朝時代頃に大規模な盗掘を受けた際の
版築の覆土や石室を破壊していたことが、要因として考えられますが、
地震の破壊力を証明する事例です。
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